牧師メッセージ | 茨木恵キリスト教会

2月のショートメッセージ


あなたのみ言葉はいかにわがあごに/甘いことでしょう。
蜜にまさってわが口に甘いのです。(詩篇119:103 口語訳)



バレンタインデーの2月、甘い匂いが漂っていそうな季節ですね。
最近では、チョコレートに限らないで、
キャンディーやケーキなど他の甘いお菓子などもプレゼントに選ばれているそうです。
しかし、いずれにしても甘いものが選ばれているということは、
新婚初期を蜜月/Honeymoonと呼ぶように、
多くの人が愛を「甘い味」というイメージで捉えているから、かもしれません。

そう考えると、バレンタインデーに甘いものをプレゼントするというのは、
言葉で伝えきれない思いを実物で示すのであって、
奥ゆかしく可愛らしい仕草のように思えますが、
実は大変具体的で大胆な振る舞いであるとも言えるのではないでしょうか?

とはいえ、やはり「甘いものをプレゼントする」という行為が、
単にお菓子をあげただけ、ではなくて愛を伝えるものとなるためには、
そこに心が伴っていなければなりません。

どれだけプレゼントが甘くおいしいものだとしても、
いらいらしたり苦々しい気分で相手に渡せば、
それは愛を伝えることにはならないのです。

そして、自分の思いをより具体的に相手に伝えることが出来るものは、
最終的には自分自身の言葉なのではないでしょうか?

私たちは仕草や態度あるいはプレゼントから、
言葉にならない相手の気持ちを推し量ることが出来ますし、
また相手にもそれを期待します。

しかし、それでも最後は言葉にしなければ、
お互いに伝え切れない思いがあるのではないでしょうか?

「いかにわたしはあなたのおきてを愛することでしょう。
わたしはひねもすこれを深く思います。(詩119:97)」

と、聖書では語られています。
この人は自分の信仰を言い表しているのですが、
そこにある感情は神さまに対する「愛」です。

この人は相手を愛するがゆえに、
その語る言葉にひねもす=一日中聞き入って、深く思っていると語っているのです。
この人にとっては、愛する神さまの言葉こそを聞くとき、
それはただ流れて消えていくような儚いものではなくて、
深く味わうことができるものであり、
その味は口で味わう「甘い蜜」よりも甘く(詩119:103)
自分に迫ってくるものであると語るのです。

語る側だけではなく、聞く側だけでもなく、
愛の関係の中で言葉が語りだされるとき、
そこにはプレゼントよりも甘露な思いが伝わっていく、
そのことが神様と人との関係を通して示されているのです。


バレンタインデーの2月、みなさまが日々語る言葉が主によって聖められ、
プレゼントにまさって、家族に、伴侶に、恋人に、
全ての相手に心よりの思いを伝えるものとなりますようにお祈りいたします。






造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、
日々新たにされて、真の知識に達するのです。(新共同訳・コロサイ3:10)



この間、通りがかりに、茨木市の成人式を見ました。
色鮮やかな着物やパリッとしたスーツを着て、
おすまし顔の新成人たちを横目に見ながら、
きっと彼らは、自分たちがこれから新しい大人としての歩みが始まる事に、
期待と不安でわくわくどきどきしているに違いない、などと思いました。

新成人たちに限らず、誰しも新しいモノや事の始まりは、
なんだかわくわくどきどきする気がするのではないでしょうか?
新しい服、新しい靴、新しい生活などなど・・・。

ところが大変残念なことに、私たちがだんだんと齢と経験を重ねるごとに、
新しいモノや事に新鮮な驚きを覚えることが少なくなっていく、
ということがあるのではないでしょうか?

多くの場合において、小さな悲しみや苦しみに対して動じない強さを手に入れるかわりに、
人生に無感動や無気力になったり、日々を活き活きと過ごす楽しみを失っていく、
そんな経験をするようになるのではないでしょうか?

しかし、どれだけ齢を重ね、
あるいは人生に新鮮さを見出すことが出来なくなっている人であっても、
新しい命を見たとき、それにふれることが出来たとき、
人は全く無感動のままでいることは出来ないのだと思います。

さて、聖書では次のように語られています。

古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、
日々新たにされて、真の知識に達するのです


そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、
未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。
(新共同訳・コロサイ3:9後半〜11節)

キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。

先ず、イエスさまを信じる人は、古い人を行いと共に脱ぎ捨てて
「新しい人」を身に着けると言われています。
これは、私たちの存在そのものが以前とは全く違う、
新しい存在になるということを教えています。


次に、「日々新たにされて」という言葉が続きます。
この言葉はto renew、つまり更に新しくされること、を意味しています。
一度新しくされた人は、それで終わるのではなくて、
更にますます、日々、新しくされ続けていく、
それがイエスさまを信じていく人に与えられている恵みなのです。

そしてその次に、その恵みは全く何の差別なしに、若者であっても、
たとえ死の淵にいたとしてもさまたげなく、
全ての立場の人々に与えられることが語られているのです。

もちろん、信仰者にも悩みや苦しみはあります。
また、時として無感動、無気力、悲しみに捕らわれて
身動き出来なくなるようなことも起こり得ます。
しかし、それでも私たちがイエスさまのなされた十字架の救いを思うとき、
またその方が私たちを日々導いて下さっていることを思い出して信頼するとき、
私たちは決して「どうせなるようにしかならない」、と無感動に歩む人生から自由にされます。
そして、これからイエスさまは私の人生において何をして下さるのだろうか、
という新しいことが始まる期待(そして幾ばくかの不安も)をもって
人生を歩むことが出来るのです。

新しい年の始め、皆様の上にイエス様の新しい恵みがますます、
日々、豊かに注がれますようお祈りいたします。





 

いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。

 

ルカによる福音書2章14節


サンタクロースの存在を信じていたころ、イエス様のお誕生日なのに
自分がプレゼントをもらえることが不思議でした。

何故、サンタクロースはクリスマスにのみ来るのか、何故子供にだけプレゼントをくれるのか。
何故自分がイエス様に何か差し上げるのではなく、プレゼントをいただけるのか不思議でした。

一説によれば、サンタクロースは列聖されているニコラウスという
キリスト教会の指導者がモデルとなっており、もともとは彼の記念日を祝う祭りが、
現在のクリスマスの祝いと合体したようだとも言われます。
彼は貧しい人、困っている人を生涯かけて助け続けた人物だったようです。

現代世界中をさがせば、どこかにぽつりぽつりとニコラウス氏のような
慈善家を見つけることが出来るのではないかと思います。
しかし、ニコラウス氏がサンタクロースの原型とも言われるほどに、
無私の働きを続けられたのは、彼本来の優しさや正義感だけではありませんでした。

全てのキリスト者の主であるイエスさまが、神の御子であるのに
私たち人間に仕えて下さったご生涯、そして十字架の死を忍ばれて、
私たちに罪の贖いと救いとをお与えになって下さったお姿を、
ニコラウス氏も一人のキリスト者として信じていたのです。

そして、その主イエスに従っていく道を歩むということが、
ニコラウス氏の素晴らしい働きの中心でありました。


さて、このような一人のキリスト者であるニコラウス氏の働きこそが元になって、
クリスマスのサンタクロースが語られるのであれば、本来のサンタクロース的精神は、
決して子供にだけ、おもちゃを与えてくれるというものではありません。
人が生きる上で出くわす様々な困難や悩みに対して、
助けを必要とする者のところであれば、全く差別なしに訪ねてくれる存在ではないでしょうか。

さて、聖書に記されているイエスさまご降誕のくだりで人々のところに来たのは、
サンタクロースではなくて天使たちでした。

天使はイエスさまのお誕生について
「すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える(10節)」 と語った後、

”いと高きところには栄光、神にあれ” と神様を褒め称え、

”地には平和、御心に適う人にあれ” と地上の人間たちを祝福しました。

つまりこれから生まれるイエス様ご自身が

あなたたちへの神様からのプレゼントですよ、と語られているのです。

また、天使の言葉にある「平和」とは単に戦争のない状態を言っているのではありません。
私たち人間の内にあるもっと本質的な問題、神を離れ悪を思い、
また行ってしまうこと、すなわち罪の内にあるが故に起こるあらゆる困難や苦しみ状態から、
人が本来あるべき平安を持つ姿に回復させていただくことを意味しています。

その平和を実現して下さった方であるイエスさまのお誕生を想いクリスマスを祝うとき、
もちろん子供でも、そして大人でも、貧しくても富んでいても、
全てこの方を必要としている人、救いを求めている人はもれなく、
神様ご自身の御心として、プレゼントをいただくことが出来るのです。

皆様の上に、神様の祝福が豊かにありますように!メリークリスマス!





「あなたがたは、心騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

  新約聖書ヨハネ福音書14章1節



現在私たちの教会では、定期的週間の集会として

水曜日午前10:30 「聖書の学び祈り会」 (於:茨木恵キリスト教会)、 

水曜日午後7:00 「聖書の学び祈り会」 (於:高槻教会)、

木曜日午前10:30 「木曜礼拝」 (於:高槻教会) 、

木曜日隔週午後2:00 「ベテル聖書の学び会」 (於:高槻教会)
 を行っております。

どなたでも心からご出席を歓迎いたします。

木曜礼拝では3年ほど続けてヨハネ福音書の講解をしていますが、
先週から14章に入りました。
ヨハネ福音書14章〜16章は、通称 「告別遺訓」 と呼ばれ、
主イエス・キリストが最後の晩餐の席上で弟子たちになした告別説教です。
聖書のどの言葉も 「神の言葉」 として意義深いものですが、
特にその中でも主イエスの遺言説教となると、
それだけでも身を正して受け止めなければという思いにさせられます。

その告別遺訓の最初の言葉は

「あなたがたは、心騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」 
(14章1節)です。

最後の言葉は

「あなたがたは、この世ではなやみがある。
 しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」
 です。

どちらも弟子たちがこれからも、人間として、キリスト者として、
この地上に生きる現実を見極めての勧めです。
主イエス・キリストを信じる信仰者とて、この世に生きる限り恐れ、不安、思い煩いがあります。
創世記の記事に従えば、禁断の木の実を食べエデンの園から追い出された、
失楽園の状況の中にあるのが私共人間の姿です。

弟子たちもまた、この世にあって
この世に生きる人間の限界を背負って生きなければならないのです。
主イエスと一緒に起居寝食を共にしていた時にはそれほどの不安、はありませんでした。
主イエスが、ここに、身近におられたからです。
しかし今やその主がいなくなるのです。
「私は必ず世の終わりまで共にいる。」 と約束してくださった主イエスですが、
その約束が彼らの中で不確かなのです。

「あなたがたは心騒がせないがよい」 との冒頭の言葉の
「心騒がせる」 とは心がバラバラになることです。
心が場を失い、定まらないのです。 最近、良くアイデンティティーという言葉を聞きます。
「今の若者セルフ・アイデンティティーが欠如している」 などと言われます。
若者だけではありません。 大人でも確かな自己が失われしまうのです。
心がしっかりした根拠に根ざさないのです。 その為にいつも恐れ、不安、思い煩いに支配されてしまうのです。
神を失っているからです。 救い主キリストがいましたもうことを見失っているからです。

否!たとえ神の存在、キリストの存在を信じていても、ただ頭で理解するだけで、
「私が道であり、真理であり、命である。」(14章6節)と
語りかけてくる主イエス・キリストを信頼しないのです。


主イエスは、ご自分がいなくなって、弟子たちがそのような事態に陥ることを予測して、
あらかじめこの告別遺訓を残して下さいました。
何度でも何度でもこの主イエスの遺言である、
「あな たがたは、心騒がせないがよい、神を信じ、私を信じなさい」 との語りかけを
受け留める必要があるのではないでしょうか。

木曜礼拝では、7月〜10月(8月はキャンプなどで休み)にかけて、
この主イエスの告別遺訓を詳しく解き明かしお話いたします。
是非ご一緒に聖書を学んでくださいますよう、
また日曜日の礼拝にも是非お越しくださいますよう。







愛する者たちよ。わたしたちは互いに愛し合おうではないか。
愛は神から出たものである。

ヨハネの第一の手紙4章5節



私どもの教会では、毎月第3金曜日の10時はんから、「母と子の会」をもっております。
母親が子供と一緒に歌を歌ったり踊ったり、お菓子を食べたりする楽しい時です。
その時に聖書から親子の問題、家庭の問題についてのショートメッセージをいたします。
以下の文章は今月の「母と子の会」メッセージからのものです。

聖書には「お互いに」ということが所々に記されております。
人間は交わりの存在であり、関係の中に生き、生かされています。それ故
「相互依存」の中に生活するという必然性をもっているのです。
特に結婚がその代表的ものです。
夫婦は必ず相互依存的に生きており、そのことをお互いに了承し、認識しあうことが肝心です。
この関係は両親と子供との関係にも当てはまります。

外見は確かに親が子供を育み、子供は全面的に親に依存して生を保っておりますが、
しかし親も必ず子供に依存しているところがあります。
子供が与えられたことが親の人生に一種の価値を与え、生き甲斐、働き甲斐となり、
また親自身の人間的、人格的成長に他の何よりも貢献しているのが自分の子供です。
親は子供に依存されているだけではなく、子供に依存している面が大いにあります。

しかし注意しなければなりません。
この依存性にゆがみが生じてくる時には大きな問題が生じます。
」の欠如した依存性です。

家庭内に愛が欠如しますと、混乱が生じてくる事は当然です。
そのとは決して好き嫌いの「愛の感情」のことではありません。
自分の満足の感情のために相手を利用し、
自分のための相手にしようとして相手を支配しようとする
「エロス」(利己的愛)とは全く正反対のものです。

上記の聖書の言葉には、本当の愛は神からくるものであると記されております。
この神から来る真の愛が欠如する時に、

相互依存という人間の本来的在り方さえもゆがんでしまうのです。

多くの精神医家が指摘するところですが、愛に於ける依存性が失われると、
例えば夫婦の愛が失われると、
人間は他のものに依存したがる傾向があるというのです。

ある人はアルコールに、ある人は薬物に、ある人はパチンコにといった具合です。
そして注意しなければならないのは、
自分の子供に対してもこのようなゆがんだ依存性をもってしまうのです。

少し極端な例ですが、現今日本でも、親が子供を虐待することが多くなりました。
子どものそばにいる時間は、母親がもっとも多いものですから、
児童虐待も母親による場合が多いようです。
多くの場合に母親がまともな依存性を確保していない場合が多いようです。

夫との愛の関係が失われたり、近所づきあいや、
友達付き合いが無く孤独の中に陥った母親が 子供に依存するようになるのです。
人は孤独になりますと不安が多くなります。
不安が大きくなりますと、なにかにしがみつこうとすることが強くなります。
その場合、しがみつくものが無く、夫の間に相互依存関係が築けないとなると、
その思いが自分の子供に向かうことになります。どういうことかというと、
自分の思いどおりの子供にして、慰められようとするのです。

ある心理学者は母親の不安の大きさに比例して
子どもを操作しすぎる度合いが強くなると言っております。
自分が気にいるような子どもにして、精神的に満たされようとするのです。

ですから子どもが思うようにいかないときには、深い悲しみを感じます。
そればかりでなく上手くいかなくなった時には腹が立ってしまうのです。
そこで子どもに非常に強い指示をすることになります。そのような親はがまんしきれなくなって、
虐待へと走ってしまうのです。

母親が、そのような不安から解放され、健全な相互依存に生きるためには、
話し合える友達を多く持つことも大切ですが、何より上記の聖書の言葉の通り、
上からの愛を受け止めることが大切です。


自分が大いなるものからの召しに与って母親として生かされていることを知り、
その大いなる者なる神さまからの愛に基づいて、
神様からくる愛に生きていくことの感謝を知る事が大切なのです。









わたしの恵みはあなたに対して十分である。
わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。

第Uコリント12章9節



私どもの教会では、毎年、母教会にて6月に特別伝道礼拝を行っています。
特別な説教者を招いて、伝道的なメッセージをしていただきます。
今年は6月21日に、工藤信夫先生をお招きしております。
同師は著名な精神医家で、多くの人に読まれている沢山の著書もあります。
各地で小グループの「学び会」を持っておられ、
私どもの教会でも毎月第3月曜日の5時半から15,6名の方々と同師を囲んで、
「豊かな人生」「人間関係の問題」「家族の問題」「心の問題」 等などについて
有益な学びの時を持っております。

伝道集会においては 「人の強さ、弱さ」 というテーマでお話して下さいます。
本当の人の強さは何かということです。
強いと思われている人、自分自身も 「俺は強いんだ」 とうぬぼれて、
「弱い人」 と思われる他人を見下す人に限って、
死という人生の終焉を迎えた時に大きな戸惑いを感んじ、絶望してしまうことがあります。
あるテレビなどにも良く映じられた著名な世界的実業家が
トゥルニエという精神医の所に相談にきて、
「私は事業に成功したが、人生に失敗した!」 と訴えたそうです。
工藤師は、著書の中で語ります。

「・・・私たちは強さを求める気持ちが根強く息づいているが、
  それには危険な強さがあるらしい。 それを私は 『なった強さ』 と呼びたい。
  これに対して私たちの求めるべきもの、聖書が指し示す強さを
 『された強さ』 という言葉で表現したい。・・・」
 (著書「心で見る世界」p94)

同師の指摘する 「なった強さ」 と 「された強さ」 ということの対比を考えさせられます。
どうも私たちは 「自分で強くなった」「自分の力、自分の努力で今の自分を作り上げた」
という受け取り方をしてしまいます。 確かに上辺はそうかもしれません。
しかし本当に自分の力、自分の強さだけが自己形成の根拠かと問う時に、
「断じてそうではない!」  と結論せざるを得ません。
他の何ものかによって 「強くさせられた」 と受け止める方が正しいのではないでしょうか。

「させられた強さ」「強くさせていただいた」 ということに限らず、
人生そのものを「生かしていただいた」 と受け止める時にこそ
死という終末に臨んでもなお感謝と希望を持ち続けることのできるのではないかと思います。

また本来は「強い人」「弱い人」 と区別すること自体が間違っているような気もいたします。
人間を「強さ」「弱さ」 という自分の観念の中に括ってしまうこと自体が、
とてつもない高慢であるような気がいたします。


上記の聖書の言葉は古代キリスト教会の大伝道者パウロという人が語った言葉です。
彼には生涯の持病があり、時々発作のために大変苦しんだようです。
しかしその中で弱さを学び、受容し、そしてかえってその弱さを知るが故に、
キリストによって強くされたのです。

6月21日の工藤先生のメッセージにおいて、この逆説とも思える弱さの中にあってこそ強い、
という主イエス・キリストにおける真理をお話していただきます。
是非おでかけください。
特に御家族の中で精神的問題を抱えておられる方のお越しを歓迎いたします。






すなわち、わたしたちは、
その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。
それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、
わたしたちもまた新しいいのちに生きるためである。

ローマ人への手紙6章4節



上記の聖書の言葉は、私どもの教会の今年度の年間聖句です。
この一年、教会員みんなで、この言葉をこころに刻みながら、生活することを心がけるのです。

キリスト者 (クリスチャン) とは 「キリスト」 の 「者」 です。
キリストに属する者という意味です。

しかし、私どもは様々なものに支配されながら、
従ってそのさまざまなものに心を動かされながら、生きています。
地上の生活を送るにあたってはどうしても避けられないことです。
次から次へと心を捉える問題が起き上がってきます。
それに縛られるようにして生きています。
そのような生活の中で、キリスト者は、「キリスト」 に所属する者として、
何よりも先だってイエス・キリストに支配される者としての生を送るのです。

それは決っして「縛られる」という束縛ではなく、心の大きな解放です。
なぜなら自分自身の力ではどうしても、乗り越えることのできない、
さまざまな心の問題、ねたみ、憎しみ、不遜、敵意等々という事柄
(聖書では「肉の働き」と記されている) を主イエス・キリストが打ち破ってくださるからです。
そしてキリストそのものがわたしの魂の力、
命の糧となるほどに私どもがキリストの者とされるのです。


勿論キリスト者とて、地上の生活を生きる限り、
完全にこれらのものからの解放を得たとは言えません。
完っき解放 (贖い) は終りの時です。
しかしキリストの者とされたものとして一時は肉の働きに惑わされようと、
イエス・キリストが主として私どもをご支配してくださり、ご自身のもつ命を注いで下さり、
もう一度そこに生きる者としてくださるのです。

私どもバプテスト教会は、キリスト者になる儀式を 「洗礼」 とは呼びません、
原語そのものを用い 「バプテスマ」 (日本語では浸礼) と呼ぶことに固執します。
なぜならバプテスマは、ただ 「洗う礼」 ではなく、キリストへと浸っていくこと、
キリストの中へと沈潜するほどに「キリストの者」となることを意味するからです。
キリスト者となることは、キリストと共に古い命に死に、
新しいキリストの命へとよみがえることを意味します。

この5月、6月4、5回の礼拝メッセージではこの年間聖句を用いて、
バプテスマの恵みについてお話す予定です。
是非教会の礼拝にご出席くださり、
「キリストにあって新しい命に生きる」 ことの素晴らしさを知ってくださったらと思います。






・・・しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。

 マタイによる福音書26章39節

前回(3月ホームページメッセージ)において記した、
主イエスの 「ゲツセマネの祈り」 の後半の祈りです。
苦闘の中で、苦しみからの回避を祈った主イエスは、
それだけに終わらず、このみこころにゆだねることへと祈りを求めたのです。
主イエスが私どもに代わってそのように祈ってくださったのです。 
これは祈りの真髄といっても良いのです。
私どもの祈りは、確かに一般的な祈願と同様に、自分の願いごとを神様に訴えます。
特に苦しみの中にある時は、苦しみから逃れることができるようにと必死に祈ります。

しかしそれだけに終始しないのです。
最後には主なる神のみこころに委ねるのです。
みこころを重んじるものとされるのです。
「される・・」 ということは、初めからそうのようなつもりはなくとも、
真剣に祈っている中でみこころの中に包まれ、
みこころに中に生きる幸いを願うものとされるのです。


主イエス御自身が教えた 「主の祈り」 の三番目の祈りは
「みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」 です。
なかなかこの祈りは自分自身の祈りとはならないのです。
普段の生活の中で、どれほどみこころを問う生活をしてきたか、
みこころに中にに身をおくようにして生きてかを振り返ってみますと、
どんなキリスト者でも心もとない思いがするのです。

もしかしたらそこに人間 の罪といわれるものがあらわにされるのかもしれません。

それゆえにこそ、この罪人の私どもに代わって、
主イエス・キリストがゲツセマネにおいてこのように祈って下さったのでありましょう。

ある説教者が
「このみこころの実現を祈り求める祈りが、私どもの本当の祈りとなっているかどうかを、
 決定的に問われる最後の場面は、おそらく、私どもが死ぬ時であるとである。
   ・・・その自分の死に向かい合い、死の滅びをもたらす力に逆らいながら、
 みこころに信頼しきって、死ぬことが出来るかと問うのです。」 と語っています。

三浦綾子さんの 「泉への招待」 に、
彼女の日曜学校の先生で若くして召された大槻先生という方の祈りが記されていました。
19歳で天に召されたまだ少女といっても良い女性の 「臨終の祈り」 です。

 「常に私たちをお守りくださいます天のお父さま、
  きょうまで私をお守りくださいましたことをお礼申し上げます。
  けれども、多くの兄弟姉妹が、こころからあなたの御用のために働いておりますのに、
  わたしの信仰は表面ばかりで、あなたを信ずることがうすく、
  本当にあなたの御用のために働くことができなかったことを、おゆるしください。
  けれども、もしもう一度この体をあなたの御前に立たしていただけますれば、
  すべてをあなたにお捧げして、あなたのために働かせて頂きたいと思います。
  けれどもそれがみこころにかないませんでしたら、どうぞあなたの御許にお召し下さいませ。
   神様の御用のために、心から働いていらっしゃる多くの兄弟姉妹の上に
  あなたの豊かな御恵とお守りがありますように。 これが最後のお祈りです。
  このお祈りを、イエス様の御名を通してお願いいたします。 アーメン」


このような祈りへと主イエスとともに祈ることが出来る幸いを覚えたいものです。

4月は主イエス・キリストの受難と復活を記念する時です。
礼拝説教では、受難週メッセージとしては、上記の主イエスの祈りを、
イースターには死を打ち破る主のよみがえりの力についてお話いたします。
ぜひ礼拝にお越しくださいますようお待ちいたします。  





わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
 しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。


 マタイによる福音書26章39節

主イエス・キリストが十字架に至るまで、
あらゆる苦しみをなめ尽くされたことを覚える時です。
私どもが知り味わう苦悩、苦痛、悲しみで、
主イエスがご存知ないというものは何一つないのです。

上記の言葉は、「ゲッセマネの祈り」 と呼ばれ、十字架の死の前夜にゲッセマネの園で
主イエスが祈られた祈りであり、死を前にして 「汗が血に変わる」 ほどの苦闘の祈りでした。
この祈りは最も厳しい苦悩の現 実の中での祈りであり、
また死に直面した者が祈る最も厳しい祈りでした。

私共も死ぬのは怖い、つらい、悲しい、だから死にたくないと思います。
主イエスはゲッセマネで、そのつらさ、こわさ、悲しみを
私どもに先立って味わい尽くして下さいました。

しかし、主イエスのゲッセマネにおける 「汗が血に変わる」 ほどの
苦闘の祈りが意味しているものは、それだけにとどまらないのです。
主イエスの恐れ、苦悩は神の審きを受けなければならない者の苦悩なのです。
ある神学者が 「死の恐ろしさとは、死を通して神の前に立つことの恐ろしさである。」 と
語っております。 誰でも死の不気味さを何となく知っています。
死の虚無性、一切を無にしてしまうその現実を無視する人もいるかもしれませんが、
それを深刻に受け止め恐れを抱く人もいます。
しかしそれが何なのかはわかりません。
何となく死の恐れを予感的に感じ取るのです。

聖書はそれが神の前に立つこと、
神の審きの前に立つことの恐れなのであることを指摘しています。

けれども多くの人は、神の審きということはその視野の中に入ってきません。
またキリスト者でも真実神の審きを知らないのです。
まして神の審きとしての死を知ることはできないのです。
ただ予感として、何となく受け止めるにしか過ぎないのです。

しかしイエス・キリストは、彼のみがこの神の審き、
神の怒りを知り、受け止めておられるのです。

「ゲツセマネの祈り」における主イエスの苦悩は、
「神の怒りを受け止めなければならない者の、まさに地獄の苦悩」 なのです。

それは他のだれも知り得ないものです。
私どもは神の審き、神の怒りといってもそれがどんなに恐ろしいものか、
どんなにつらい惨めなものかを知らないのです。
それゆえ主イエスのように苦しんだことのある者はいないのです。
主イエスほど死を恐れた人はいないのです。


神の子キリストたる者が、何故こんなに恐れ、苦しむのかと思われるかもしれませんが、
むしろ神の子キリスト、救い主であるからこそ、
このように苦しむことが出来るのであると言えます。

私どもの教会では、今年の受難節の礼拝メッセージにおいては、
この 「ゲツセマネの祈り」 を取り上げながら、イエス・キリストの苦しみ、悲しみ、罪と死、
すなわちそれは私ども人間が味わい尽くす一切の死と罪と苦悩でありますが、
この重いテーマを課題としてて取り上げながら受難節のメッセージをいたします。  





さてゼベダイの子とヨハネとがイエスのもとにきて言った
『先生、わたしたちがお頼みすることは、
 なんでもかなえてくださるようにお願いします』。 
イエスは彼らに 『何をしてほしいと、願うか』 と言われた。


マルコ福音書10章35節

今月は上記の聖書の言葉を取り上げて、礼拝メッセージのお話しをいたします。
これはイエス様が十字架に磔にされるためにエルサレムへ向かう途上での
弟子たちとの対話を記した箇所の言葉です。

この主イエスと弟子たちの対話からも様々なことが黙想され、教えられます。
まず弟子たちの無遠慮、不躾な姿の中に私自身の有り様を二重写しに見出します。
主イエスは、このとき十字架でのご自身の死をご存じでした。
死に直面し苦悩の中にありました。 
弟子たちはその主イエスの異様さに「驚き怪しんだ」(32節)と記されています。
だのにまるでその主イエスの苦悩を無視するかのごとくに、
「わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」と
自分の欲求を押しつけているのです。 
実に身勝手な弟子たちの有様です。

主イエスの苦悩、思いを無視し、ただ自分の欲求を押しつけようとする、
何かそれがいつも私どもと主イエスの関係かな、と考えさせられます。
しかし主はその身勝手な弟子たちの願い、欲求に応えるようにして、
「彼らに『何をしてほしいか』 といわれたのです。
私どもの身勝手さ、ただ主イエスは、欲しいものを要求するエゴイステックなこの私さえも愛し、
受け入れてくださるのです。 そして問うてくださいます。

「何をしてほしいか」 と。

「何をしてほしいか」・・・何気ない主イエスの問いですが、
これに直面した者のその本性があばかれるような問いです。

なぜなら何を願って生きているかによって
その人の内面の真実さが決定されているからです。
私は表面では主イエスに似た者でありたいと願っています。
しかしその内面、奥深いところ(こころの底)ではそうなのかな、と疑ってしまうことがあります。
人間としてのこの私の深層、真相はどうなのか、と考えさせらることがあります。
この主イエスの 「あなたは何を願っているのか」 という問いは、
まさにそのような私の本心、心の奥を問いかけてくる問いであるといえます。

ちなみにこの主の問への弟子たちの答えは
「私どもを天国であなたの右の座、左の座においてください」 というものでした。
皆様はこの弟子たちの答えをどう思われますか。
この弟子たちの願いは、真の審判者主イエス、キリストの前で是なるもでしょうか、
否なるものでしょうか ・・・・

茨木伝道所(茨木恵キリスト教会)、高槻教会では2月、3月は上記の聖書箇所を講解しながら
礼拝メッセージを試みます。皆様のお越しをお待ちいたします。







「主のいつくしみは絶えることなく、そのあわれみは尽きることはない。
  これは朝毎に新しく、あなたの真実は大きい。」


旧約聖書 哀歌3章22、23節

新年おめでとうございます。
今年もこの 「おめでとう」 という挨拶をお互いに交わすことで始まりました。
なぜ日本人は 「おめでとう」というのか、それは万物が新しくなるからだそうです。

吉田松陰が萩藩の野山獄に囚われている時の1855年(安政2年)元旦に妹に手紙を書き、
その中で 「新年おめでとう」 という理由を次にように説明しているそうです。

「めでたいの目は目玉のことではなく、木の芽、草の芽のこと。
木草の芽は冬至から1日1日、陽気が生ずるにしたがって萌え出る。
この陽気は、物を育てる気で、人の慈悲仁愛の心と同じ。
天地にも人間にも好ましい気である。
つまり、陽気が生じて、草も木も芽がでたいと思うのが、おめでたいということ。
人間の場合は、新年に、きたない心を洗い流し、人間の本心である優しい気持ちに戻ること。
それが『新年おめでとう』の意味である」(朝日新聞天声人語より)

獄中からこのような文章を書く吉田松陰という人物は
「さすがすぐれた指導者だったんだな」 という思いがいたします。
「草木に陽気が注がれ芽が出るように、人間に慈悲仁愛の心が注がれ、
汚い心が洗い流されて、本心に立ち返る」 というのです。

しかし私ども信仰者はふと考えさせられます。
この慈悲仁愛の心が人間の本心なのか?
またこの本心に立ち返るという新しさはただ自然の流れの中でなされるものなのか。

やはり天地創造の、そして人間を創造し給うた神のゆるしを受け、
あたらしい創造に与ることが必要ではないのか、
そしてそれは新年のことだけではなく人間一生涯の課題ではないか、と考えさせられます。

上記の聖書のみ言葉は、BC6c頃に、バビロニアによって滅ぼされ、
国土は荒廃し、国民の多くが捕囚民として連れて行かれ、
頼みにしていた神殿さえも破壊さてしまって
現実に直面した旧約聖書信仰詩人が詠ったものです。
吉田松陰が獄中という悲惨な状況にありながら
「人の慈悲仁愛」 を説いたと同じように、
いやそれ以上の悲惨を目の当たりにしながら
「神のいつくしみ、あわれみ」 を告げているのです。
そして朝毎にそれを確認しようとしているのです。

今年の一年も、この聖書の言葉に即して、
「主なる神のいつくしみ、あわれみの真実さ」 によって、
その新たな創造に与りながらの一日一日を迎えたいものです。







「年若い者は弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる
しかし主を待ち望む者はあらたなる力を得、
わしのように翼をはって、のぼることができる。
走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」

      旧約聖書 イザヤ書40章30、31節


キリスト教会では、クリスマスの4週前の日曜日から待降節を過ごすことになっております。
「待降節」はキリストの降誕を待つという意味があります。
この時私どもの教会では、クリスマスの時に向かって特別集会の準備をしたり、
教会堂に様々な飾り付けをしたり、クリスマス賛美歌の練習をしたりしながら、
この年もクリスマスを迎えようとしていることを確かめるのです。

ただ単にクリスマスに備えるというだけではなく、かってイスラエルの民がキリスト(救い主)を
待ち焦がれたように、私共も待つ存在、何よりも救いを待つ存在であることを想起する時です。

人は必ず何かを待ちながら生きております。
親は子供の成長を待っています。
受験生は進学を目指して勉強に励みます。妊婦は出産を待ちます。
私どもの人生の歩みは何かを待ちながらなされて行きます。
もし待つことを失うなら、そのような生活は、活気のない、潤いのないものになってしまいます。

そして待つとは「未来」にかかわることです。
時には、その未来に望みを持つことができず、待つことができなくなり、
絶望してしまうこともあるのではないでしょうか。
往々にして、私どもの希望は絶望へと至るものです。
なぜ絶望するかというと、未来を信頼することが出来なくなってしまうからです。

上記の聖書の言葉では、その未来に絶望した様を
「年若い者は弱り、かつ疲れ、壮年の者は疲れはてて倒れる」と表現されています。
しかし「主を待ち望む者」はそうではないと明言されています。 
「主を待ち望む」とは主なる神のご支配を確信することです。
たとえどんなことがあろうと、私どもの未来は、闇の力や悪の力、
死と罪の力が最終的勝利を得るのではない、
主なる神がご支配してくださっているのだという信仰を与えられることです。
そのようにして、主の支配を信じ、「主を待つ者」は未来を信頼することができるのです。

この待降節の時、是非日曜日10時半からの教会の礼拝に出席してくださり、
一緒に「待つ」ことの意義を受け取ってくださったらと思います。
こころよりお待ちいたします。




 

「悪しき者のはかりごとに歩まず、 罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。」

                                  詩篇1篇1節



先週の礼拝では上記の詩篇1篇からのメッセージを聞きました。
これは私どもの教会で数年前に亡くなった一人の老姉妹の愛唱聖句でしたので、
改めて神様からのお言葉として感謝をもって受取りなおすことができました。

ここでは「さいわいな人」が語られています。
聖書で語る「幸い」は、ただ私ども自身が自分のエゴに基づいて
幸せの感情を抱くということとは違います。

人間は、時には人を侮り、傷つけて幸福感をもってしまうことがあります。
そのような自分勝手な幸せ感とは違います。
「さいわいである」と言われているのは、
神様から「おめでとう」といって祝福を受けることができる人たちのことです。

この詩篇の詩人は、「歩む」「立つ」「座す」という動詞を用いながら、
私どもの人生の在り方がだんだん確定され、固定化されていくことを記しています。
時には悪魔のはかりごとに惑わされての歩みをなしてしまいます。
そのようにして歩んでいるうちに神様から与えられる道筋とは違う道のりに
身を置いてしまうことになってしまいます。
さらには命の源である神をあざけるような有様を自分の生活の形態にし、
どっぷりとそれに浸かってしまうようになってしまうのです。
そこには本当のしあわせ、祝福が無いのだと教えられているのです。

この詩篇1篇では、「流れのほとりに植えられた木の、時が来ると実を結び・・」と、
命の水が不足なく注がれる流れのほとりに植えられた樹木に幸いな人がたとえられています。
私どもキリスト者にとってその命の水は主イエス・キリストです。
主イエスとの深い交わりにおいてこそ実を豊かに結ぶことができ、
幸いな人になりうると思わせられます。






「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、
神のさまざまな恵みの管理人として、それをお互いのために役立てるべきである」

 
              新約聖書 ペテロの第一の手紙4章10節

上記の聖句(聖書の言葉)は、私どもの教会の年間聖句です。一年間特にこの言葉を覚え、
心に刻みながら、これすこしでも生活に生かして行きましょうと皆で決めた言葉です。

10月12日、13日に教会のファミリーキャンプを行います。その時のテーマもこの言葉です。
大人も子供も一緒になって、神様からの賜物を自覚的に受取り、
それを役立てていくことを学ぶ時になったらと思います。

賜物とは神様が下さった恵みのことです。
私どもは時々他の人と比べて、自分には何の賜物もないと不平、不満を感じ、
自己卑下に陥ってしまうことがありますが、聖書はひとそれぞれ、
それなりの賜物が必ず与えられていることを断言するのです。 
そもそも生きていること自体、命そのものが賜物であるといえます。
そしてこの聖書の言葉は、それを生かすことを勧めています。
決して大それたことではありません。
ある特別な賜物を持っている人は世界のため、
神様のため大きな事業をすることが出来るでしょうが、
私どもは小さなことしかできないかもしれません。
しかし、それもまた神様の目からみれがとても大切なことです。
肝要なことは、ともかくそれぞれに、その人なりに与えられた賜物を
少しでも生かしもちいることではないかと思います。

女性詩人エミリー・デイッケンソン女史の次のような詩があります。


  もしわたしが一人の心を傷心に陥らせないようにすることが出来るなら、

  わたしの生涯は無駄でないであろう。

  もし一人の命の苦悩をやわらげることができるなら、

  あるいは一人の苦痛をしずめることができるなら、

  あるいはまた、一羽の弱り果てている駒鳥を助けて、

  その巣の中に再びもどしてやることができるなら、

  わたしの生涯はむだではないであろう。



この詩はどんなちいさなことでも、ともかく自分が何かの役に立つことの喜び、
そしてそのために自分の生があることが詩われているのではないかと思います。

教会のメッセージにおいて、またファミフィーキャンプでは
そのことを改めて学び受け取りなおしたいと思います。

是非私どもの教会にお出かけください。






「わたしの恵みはあなたに対して十分である。
わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」


コリントへの第二の手紙12章9節


私どもの教会は正式には高槻バプテスト教会の伝道所です。
今年の9月で開所20周年になります。

当時母教会の会堂は雨漏りがし、多くの兄姉は新会堂建築をと望んでいたのですが、
牧師の希望で会堂建築よりも先に伝道所を建てようということになりました。
高槻市周辺のいろいろな所を探しまわりましたが、予算のこともあり、
なかなか適当なところが見つかりませんでした。
ある時時価の半値ぐらいで駅から徒歩8分の現在地が売りだされておりましたが、
法規上敷地内に2件の家は建てられない土地
(土地は広いが、そこに至る間口が狭いため)であり、
取得しても会堂建築は不可能なところでした。 すでにそこには2個のアパートが屋根続きで
(2人の所有者が屋根だけをつなげ一軒として法逃れをして建てていた)
建てられておりました。

「今は法的には伝道所の建物を建てることは無理かもしれないが、
そのうち主なる神が何とかして下さる」
という確信をもって思い切ってこの安価な土地を取得したのです。
そしてその通り、奇跡的にそこに会堂を建てるための建築確認を得ることができのです
(一部道路として提供することで許可を得た)。

丁度そのころアメリカからの宣教師のサンドホルト師が高槻教会の伝道の業を知り、
携わって下さることになりました。
母教会高槻教会からは19人の信徒が派遣され、人も土地も建物も備えられて、
20年前1987年9月6日第1回目の伝道所での聖日礼拝が始まりました。
会員19名、客員3名のスタートでした。

3年後、当初の計画通りサンドホルト師は転任され、
神学校を卒業した熊谷稔師が引き継ぎ17年間伝道所の宣教に携わってくださいました。
同師は今年の4月我孫子バプテスト教会に転任され、
現在は後任の伝道者を祈り求めているところです。

熊谷師が転任され教会の兄姉は途方に暮れておりましたが、
思いもかけず主が素晴らしい説教者
(かって長年牧師をしておられた他教派のA師)を与えてくださり、
素晴らしいみ言葉の解き明かしを得、慰めと力を与えられております。

上記の「わたしの恵はあなたに対し十分である」は、
この伝道所に名称をつけるために兄姉と協議し「茨木恵キリスト教会」と
命名した時の根拠となったみ言葉です。

古代教会の大伝道者パウロが自分の持病について悩み、
癒しを祈っていた時に主がこのように語りかけて下さいました。
神の恵みは求める以前に発見するものであると言えます。
すでに等しく恵みは与えられているのですが、なかなかそれが見えてきません。
不平、不満だけが心を支配してしますことがあります。
特に幸福そうに見える他者と比べるといらだちを感じ、
神様に不審を抱いてしまうことすらあります。
そのような私どもに恵みを見出すことを、
そしてその神の恵みは私どもが弱いと思えるところにこそ
確かであることが語られているのです。

強さを誇り、すべてが上手く行き、うぬぼれが増し、「俺が・・、自分が・・」 という思いが強く、
自力、我力が支配的になる時には、主の恵みによって生きようとする思いが欠如します。
いつかは自分への絶望に落ち込んでしまうのです。
神の恵みに生きる者はどのような時にも絶望することはありません。
むしろ弱い時にこそ強く有りうるのです。

ある説教者が上記のみ言葉を注解して
「恵みは虚勢をはるところでは不確かです。
弱さが認識されるところでその力は沸点に達するである」 と語りました。

私共はこの茨木の地にて、キリストとの交わりの中で与えられる主なる神の恵みを大切にし、
いつもその恵みを受け取り感謝と喜びの信仰生活を共にすることを求めて、
私どもの交わりを「茨木恵キリスト教会」と名付けました。

9月7日(日)には20周年の記念会を行います。
10時半から礼拝を行い、その後で愛餐祝賀の時を持ちます
どなたでも是非おでかけくださいますようお待ちいたします。






「主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼をはって、上ることができる。                  走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」

                                   イザヤ書40章31節

主に先月の礼拝メッセージにおいて、「アンテイ・クライマックス」 という言葉にふれました。
辞書で調べましたら、「竜頭蛇尾。尻すぼみ」 と説明されていました。
メッセージにおいて指摘されたことは、アンテイ・クライマックスの時には
神の祝福からもれてしまっているような気がするが、
本当はその時こそが祝福のもとにあるのである、ということでした。

新約聖書の中の「種まきのたとえ話」で、
「種は良い地に落ち、100倍、60倍、30倍にもなった」
(マタイ福音書13章8節)と記されています。
普通なら「30倍、60倍、100倍」 と段々成果が増し、隆盛へと向かう書き方をするのに、
ここで逆に記されております。 また旧約聖書でも 
「主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼をはって、上ることができる。
走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」 (イザヤ書40:31) と、
飛んで上るという飛翔の姿から、走る、歩くとアンテイ・クライマックスの姿が描かれています。

しかしそこに神の祝福があり、
そこでこそ新たな力を得ることの幸いが記されているのです。


考えようによっては人生そのものが、
アンテイ・クライマックスの道のりであると言えるのではないでしょうか。
なぜならすべての者が死へと向かっているからです。
聖書はそのアンテイ・クライマックスの現実をごまかしなく見据えながら、
しかしそこにこそ、その事実の上にあるからこそ、神の祝福、
めぐみが見えてくるのであることを指摘するのです。

決してある特定の派手な、仰々しい威勢の良い人物、一般的に成功者と言われる人物、
クライマックスを歩んでいる人物にではなく、
本当に平凡な日常生活を坦々と送る人達の中にこそ神の恵みを確認するのです。
メッセージでは、クライマックスと反対の逆境の時にも神の恵み、祝福からもれることはない、
否!むしろそこでこそ神の恵みに触れるのであることが指摘されていました。
なぜならその時人は砕かれるからです。
「神のみ前に砕かれる経験はどんな代価を払っても得られない貴重な経験である」
からです。

今回のメッセージを通しても、本当に慰めと力を与えられました。
毎週、命の源なる造り主なる神との関わりに基づいての
素晴らしい教訓が礼拝メッセージにおいて語られます。

ぜひ私どもの教会の日曜日の礼拝にお越しくださいますようご案内いたします。






「あなたがたに責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」

                                   ヨハネ黙示録2章4節


先月(6月16日)の礼拝メッセージは「確信に満ちた迷子」という題でのお話でした。
聖書の箇所は良く聞きなれている「良きサマリヤ人」(ルカ福音書10章25節〜)の話でした。
あるユダヤ人が強盗に襲われ、身ぐるみを剥がされ、倒されてしまった時に、
同邦のユダヤ人達は自分たちも襲われるのではと恐れて、その場から身をさけ、
助けることを拒否し、逃げ去ってしまいました。
それに対応するようにユダヤ人と敵対していたサマリヤ人がその困っているユダヤ人を見捨てず助けてあげた話です。

メッセージの一番初めに「私たちは自分を、この物語のどの人物であると思いますか」

との問いかけがなされました。 ある人は高慢にも
「自分は、敵対する人をも助けてあげようとした良きサマリヤ人である」 とかんがえます。
ある人はそうは言わないまでも、その良きサマリヤ人のようにならなければならないと考える。
ある人は、「自分は結局は助けることなく逃げ去って祭司のような者」だと考える。
しかし今回のメッセージでは、まったく異なる観点が示されました。

私たちは、あの襲われた強盗と同じではないか、ということです。
私たちは、「自分はこうした」、反対に「こうしなかった」とか、また「こうしなければならない」と、
事柄の中心に自分を置き、自分の行為を問うことだけを考えてしまいます。

キリスト者はまず自分が主イエスから受け入れられていること、
愛されていることから出発しなければならないのであるが、
ついそのことを忘れてしまう。


本当は、イエス・キリストという「良きサマリヤ人」によって
助けられた存在である自分であることをまず、
繰り返し受け取り直さなければならないことを教えられ示されたメッセージでした。

「確信に満ちた迷子」という題に、「確信」と「迷子」は矛盾しているのに・・・と
不思議に思いましたが、この「確信」とは自分こそが「良きサマリヤ人である」という確信ではなく、
迷子の自分をも探し求めてくださったキリストの愛、
十字架の愛への確信であることがわからせられました。
メッセージの最後に冒頭の黙示録2章4節
「しかし、あなたがたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまっている」
との御言葉の引用がありました。 良く知られた聖句であり、
不熱心なキリスト者への戒めの言葉として引用されます。
しかし今回のメッセージでは「初めの愛」とは
私どもが信仰を与えられた当初抱いていた信仰の熱心さ、
また愛する愛の熱心さのことではなく、
愛の根本、源であるキリストの愛のことであるとの解き明かしでした。
そのようなキリストの愛への確信こそが大切であることを改めて思わされました。
キリストの愛への確信を与えられ続けたいものです。





「あなた方は、それぞれ賜物をいただいているのだから、
 それをお互いのために役立てるべきである。」

                     ペテロの第一の手紙4章10節

私どもの伝道所で、先週バプテスト同盟関西部会の女性会の総会が行われました。
小さな建物に大勢の人が入りきれるか心配でしたが、50名ほどの方々で一杯になり、
良き集会を与えられました。 その閉会礼拝において鼓ケ滝教会牧師の川人妙子先生が
上記の聖書の言葉を解き明かしてくださいました。
例話として「ウサギとカメ」の童話をとりあげてくださり、
興味深くまた意義深く拝聴することができました。

ウサギとカメは、競争において油断したウサギがカメに負けてしまう物語です。
人生の競争にはカメのように忍耐強く地道な努力が必要であることの譬えです。
しかしこの話には続きがあるとのことです。
もう一度ウサギが競争を申込み、その二度目の競争の時は勿論ウサギは油断することなく、
カメに勝利したそうです。
するとさらに三度目の勝負を今度はカメの方から申し出で行われたそうです。
ただし池を挟んで向こう側をゴールにするとの条件が立てられたのです。
その時は勿論カメが池を泳いでの近道で勝利したのでした。
最後の結論は、二人が和解し、池のようなところを渡るときはカメがウサギを負ってあげ、
草原の中を走るときはウサギがカメを負ってあげることにしたそうです。

それぞれカメはカメ、ウサギはウサギなりの個性と賜物が与えられ、
それをお互いのために生かし合うことの大切さを教えられます。
現代の社会における競争社会の中では理想論のような気もいたしますが、
さまざまな事件のことを考えるとそのような競争原理から
相互扶助の原理へ転換が大切なような気がいたします。

上記の聖書の言葉は、他者と比較してではなく
人それなりの賜物が必ず与えられていることを教えており、
その賜物の優劣ではなく、それを他者のために生かし用いるか否かが
神様の前では問われるのであることが教えられています。

伝道所でも母教会でも今年は一人一人がそのことを
年間のテーマとして覚えることにしております。
どうか礼拝にお出かけ下さって人生の使信を受け取ってくださったらと思います。



5月のメッセージ
「しかし、わたしたちを愛して下さった方によって、
 わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」


                              ローマ人への手紙8章37節

私たちの教会は10数名の小さな集まりです。
そしてこの4月から専従の牧師がいなくなりました。
しかし素晴らしい愛の交わりを与えられております。
礼拝ではいろいろな牧師が交替にメッセージをして下さいます。

先日は饗庭俊夫先生がお話くださり、上記の御言葉を解き明かしてくださいました。
主なる神は、キリストの故に、その愛の故に、
すべてのことにおいてその愛を注ぎかけてくださっているのであり、
主にある勝利へと導いて下さるのであるとのメッセージでした。
「すべてのこと」とは決して自分にとって都合の良いことだけではありません。
むしろこの著者のパウロは「艱難、苦悩、飢え、迫害、裸か、危難、剣」(ロマ8:35)
といったものを考えているのです。・・・・
私どものこの世の痛み、苦悩は、神の愛から引き離された結果ではなく、
そのことを通して主と共なる歩みが確かめられていくのであることを改めて知らされました。

礼拝でのいろいろな先生のメッセージは
きっと皆様に人生の大切な使信を与えて下さると思います。




4月のメッセージ
「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、
 神のさまざまな恵みの良き管理人として、
 それをお互いのために役立てるべきである。」


                    ペテロの第一の手紙4章10節

私共の茨木恵キリスト教会も新年度を迎えることになりました。
今年は、母教会である高槻バプテスト教会も活動を共にすることになりました。
上記の御言葉は私共の教会、母教会の共通の年間聖句です。

神様が必ず、誰ひとりもれなく賜物を与えて下さっているとの約束の言葉です。
私どもは他人と比べる時には、「こんな自分にはたして賜物といえるものがあるのか・・」
と疑問に思うかも知れませんが、しかしこの私を造ってくださったのが
主なる神である限りは、私なりの何らかの賜物が
与えられているのであると聖書は指し示すのです。
この私という存在そのものも、神からの賜物であるといえるのではないかと思います。
4月の礼拝メッセージにおいては、そのことを確認し、語り伝えるつもりです。
是非礼拝にお越し下さいますようお待ちいたします。

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